Andersen LIVING

02ヨーロッパ遠征で見てきた暮らしの中の風景を、我が家に。

競輪選手

introduce
Toyoki.Takeda

北海道出身。子供時代からスピードスケートを始め、オリンピック出場という夢を親子で抱く。一方で、トレーニングに採用していた自転車の爽快感に魅せられていた武田少年。中学生時代には、自転車専門でトレーニングしている他の選手の中にあって、ロードレースの大会でも優勝を重ねていく。やがて競輪にも興味を持ち始め、高校進学時には「競輪選手になりたい」と両親に打ち明けるまでになっていく。

厳しい自然が生み出す
天然のスケートリンクが、全ての原点。

生まれ育った北海道・斜里町は、オホーツク海に面した小さな町。冬には氷点下29℃にもなる極寒の地では、沼や湖は凍りつき天然のスケートリンクになりました。子供達にはそこでスケートをするという楽しみがありました。彼もまた物心つく頃にはスケートで遊び始め、町の少年団スケートチームに参加します。スピードスケーター武田豊樹の原点となったこの少年団のコーチをしていたのは、斜里町出身の世界的スケーターである江刺忠さんでした。ヨーロッパのトレーニング方法を取り入れた英才教育と、冬はスケート漬け、夏は山道ランニング、ローラースケート、自転車という厳しい練習環境の中で、小中学校時代を過ごしました。年に2回、参加していた道内のスピードスケートの大会。そこには、小柄ながら一際目立っていた少年がいました。1998年長野オリンピックで金メダリストとなったほか、続くソルトレークシティオリンピックでもメダリストとなった清水宏保さんです。高校時代に一気に花開き記録を伸ばした武田少年は、清水宏保さんとともに北海道のスピードスケート界においては、他の追随を許さない2強となっていました。

自らの意思のみで挑戦したラストチャンス。

北海道のスピードスケート強豪校である高校に進学、高校卒業後は実業団で働きながら競技を続けることを選択。そこで人生最大の、そして長いスランプに陥りました。5年ほどもがき続けた時、転機が訪れます。中学時代に抱いた「競輪選手になりたい」という夢。その夢へのタイムリミットが目前に迫っていたのです。当時は競輪学校の受験資格のひとつに23歳未満という年齢制限がありました。スピードスケートでのオリンピック出場は、子供の頃から両親と見続けてきた夢。幼い頃から社会人になるまで、競技に関わる一切の費用を捻出してくれていた両親の夢を叶えることが自分の夢でもあった日々。でも、競輪選手は自分の夢。どんな結果になっても言い訳ができない自分が選んだ道。こうして競輪学校の受験を決断しました。

道を示してくれた人との出会い。

競輪学校への入学のために会社も退職、新しい生活の準備を進める彼に届いたのは「不合格」の知らせでした。何も考えられず呆然とするだけの日々。そこに1本の電話が入りました。同じスピードスケートのオリンピアンにしてメダリスト、その後政界に進出したHさんでした。彼女は「この先のことが決まっていないなら」と、自分の元で秘書として働くことを提案、武田さんは政治家秘書としての生活をスタートさせました。海外への視察などにも同行する秘書としての生活の中、ある日彼女にこう提案されました。「気晴らしに本場の自転車競技を見ておいでよ」。オーストラリアで競技を見、広大な土地で実際に自転車を走らせてもみました。身体中にエネルギーが充満するような感覚を味わい「自分はやっぱり自転車が好きだ」ということを再確認したのです。その後「スピードスケートをもう一回やってみる気はある?」という彼女の言葉に、武田さんのアスリート生活は再びスタートしたのです。こうして一度は諦めたオリンピックへの夢を、ソルトレークシティオリンピックで実現させたのです。

その先の夢、競輪選手へ。

再び、諦めたもう一つの夢「競輪選手」への道がひらけたのは28歳の時。競輪学校受験のための年齢制限が、29歳未満に引き上げられたのです。またも訪れたラストチャンスに、彼は一切の躊躇なく挑み、晴れて競輪学校に入学、競輪選手としてのキャリアをスタートさせることになりました。周りは一回り以上も年下の生徒ばかり。そんな中で彼は、運動すらしなくなっていた長いブランクを一気に取り戻し、校内の記録会では9年ぶり史上5人目のゴールデンキャップ(スピード・持久力の両方で高い水準をクリアした生徒だけに与えられる)を獲得。29歳のデビューから現在まで、KEIRINグランプリ獲得1回、G I優勝7回、G II優勝8回といった成績を収め、通算10人目となる通算獲得賞金15億円を突破するレジェンド選手となったのです。

ヨーロッパの暮らしに根付いている炎との暮らし。

競輪選手として茨城の所属となった時、この地に家をという希望がありました。それを実現したのが10年ほど前。ある土地が売りに出ているという情報が入り、立地も含め広さも十分だったことから購入を即決。知り合いが建築士を紹介してくれて、自宅の建設が始まりました。それはまるで、スランプと挫折の中で夢への道が再びひらけたように、次々に情報が集まり人が動き、ご自宅の新築はあっという間に動き出しました。

「スピードスケートでヨーロッパに遠征していた時代、あちらの暮らしには暖炉や薪ストーブが生活の一部として根付いているのを見てきました。インテリアのことはわからないんですが、競輪選手になってからも、暖炉や薪ストーブが載ってる雑誌を持ち歩いては眺めていたんですよね」。

設計については建築士さんにお任せしていたのですが、完成直前になって雑誌で見つけて気になっていた、アンデルセンリビングに薪ストーブを設置して欲しいと、自ら直接電話。長いご縁がスタートしました。

「実はこの薪ストーブで4台目なんです。吹き抜けもあるものですから、最初にお願いしたタイプのものだと、なかなか暖まらなくて。現在のものは、メーカーの本国仕様の大きなものをわざわざ取り寄せていただいたんです」。

冬の朝、薪に火をつけるのは、武田さんの仕事。「朝起きて、お茶を入れながら自分で薪ストーブをつけるんです。薪ストーブって、トレーニングに似てるなと思うんです。トレーニングは常に厳しく追い込むだけではなくて、時にはエネルギーを持続させるためのメニューがあったりします。炎も、薪に火が着くまでは強く、その後は暖かさを維持するために調節をしながら燃やしていく。すごく手がかかります。でも、それが楽しいんですよね。薪と遊ぶのは、センスがいりますよ」。

「薪が燃える匂いって、自然を感じますね。なんとなく懐かしいような。永田町で仕事をしていた頃は、ビルに囲まれた生活が苦手でした。そういう意味でも、この自然を感じる匂いもまた薪ストーブの大きな魅力ですし、リラックスする自宅には欠かせない暮らしの一部になっています」。

武田豊樹

競輪選手(日本競輪選手会茨城支部所属)
1974年 北海道・斜里町生まれ
現在は茨城を本拠地に全国を転戦している。スピードスケート選手時代はアスリートと言われていたが、競輪選手はアスリートではなく「仕事」だと思っている。自宅敷地内にはトレーニング施設も建設。トレーニングの組み立てから、自転車の整備などの一切を自分自身で行なっている。著書に「競輪選手 博打の駒として生きる」がある。

撮影取材 2023.3.26 撮影:吉野匠 文章:関口真理子 かりさ屋 ディレクション:北脇康太郎 Plain consulting

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